こんにちは、ぐうたらスーパー主婦の糸野つむぎです。
先日、映画「友罪」を見てました。生田斗真さん、瑛太さん、佐藤浩市さんらの豪華キャスト、監督は「64ロクヨン」の瀬々敬久監督。ロクヨンのキャストが結構出演しています。
映画「友罪」を見た理由は?
たまたま締切間近の株主優待券があったから、という理由だけではありません。64ロクヨンの監督と同じということが大きかったです。ロクヨンは本も映画も見ました。まず小説を読んで、映画化されるというので、どんな風に表現されるのかに関心がありました。今、残っているのは映画の映像の方です。佐藤浩市さんの迫真の演技が忘れられません。64ロクヨンには瑛太は新聞記者役で出ていました。しかし、この「友罪」では、もとジャーナリストの友人役です。ただの友人ではありません。過去に連続児童殺害事件の犯人でもあります。医療少年院を出て、工場に勤め始めて二人は出会うのです。
あまりあらすじを書くと、これから映画を見る人がおもしろくないので控えますが、私は、「罪に向き合う」ということに関心がありました。親友が過去に殺人を犯した人であることを知ったらどうしますか?
こういう理由でこの「友罪」には関心を持っていました。
誰もがあやまちを犯し、その過ちを苦しんで生きている
この友罪では、主役の二人以外に、その周囲の人達がそれぞれの人生であやまちを犯し、苦しんでいます。最初は関係がよくわからなかったのですが、途中から「みんな何らかのあやまちを犯している」と言いたいのだとわかりました。償いかたはそれぞれです。主役の元ジャーナリストは正しい世の中にしたいと思い、ジャーナリストの道に進み、息子が交通事故を起こした父親は遺族に対し誠意をもって賠償金を支払い、家族の解散という方法を選びます。自分の家族がつらい思いをすることで遺族に向き合いたいという選択です。どんなことをしても、被害者の遺族にとっては満足しうることがないでしょうが、償うということは一生その事件を抱えて生きていくことのようです。
あやまちには色々あり、いわゆる犯罪と言われるものから、家族・学校などの属する組織に対して十分なことができていなくて、何らかの秩序を壊してしまうことまでいろいろあります。人間ですから、完璧はあり得ませんが、うまくいかなくて、「申し訳ないことをした」と反省できるのは、良心を持っているからです。
例えば、身近なところで、子育てを例にとります。子どもを育てるために、収入が必要で、長時間働かないといけないとします。子どもの具合が少しぐらい悪くても保育園・学校に行かせることもあるでしょう。疲れて、手の込んだ食事作りができないでしょう。子育てのために働いているのに、子どもの声に耳を傾ける余裕がない日もあるでしょう。それでも、順調な育ちをしていればいいのですが、ぐれたりしてしまうと、「申し訳なかった」と感じるかもしれません。
とてもまじめに生きているのに、良くない結果だけを見て、それを「あやまち」や「罪」と思っていないでしょうか?「あの時、ああすれば良かったのかもしれない」と良心の呵責にさいなまれるということはないでしょうか?
過去を悔いながら生きるのは辛いことだけど…
この「友罪」でも、交通事故・家庭の問題・恋人との問題・マスコミの在り方などの身近な「罪」について触れています。罪があっても、みんな生きていかないといけないのです。
瑛太演ずる元殺人犯の鈴木が、
「それでも僕は生きたいんだ!」
と、大声で叫ぶ場面には人間の心底の力を見た気がしました。生きることは人間の欲望であるかもしれません。でも、強く過去の罪を悔いているので、生きづらく、普通の生活に適応するにはかなり無理をしていました。瑛太の演技力はすごくて、映像が忘れられません。
私たちも日々、小さなあやまちを犯しながら生きている人が多いと思います。それに気づいたとき、「仕方がなかった」と割り切るのも一つの方法ですが、小さなあやまちは取り返せる可能性もあります。次回からの方法を変えてみるとか、考え方を変えてみることも選択肢になります。いつも悔いてばかりいると病気になってしまいますが、前向きにざっくり考えることで楽になることもあるでしょう。
過去の罪に毎晩うなされる主人公の二人。この映画はゆったりとは見られません。ずっと気を張ったままでした。しかし、最後の場面には感動です。小説を読んで、登場人物の場面場面での心情に踏み込んでみたくなりました。
過去の悲しいことをひきづっている人、友達関係に悩んでいる人、マスコミ関係に進みたい人、刺激の欲しい人、罪について考えたい人、映画「友罪」、おススメです。