父の胸部大動脈瘤破裂、4日間の経緯と家族の思い~その1
控え目に咲く朝顔

こんにちは。つむぎの庭の糸野つむぎです。

すっかりご無沙汰していましたが、これからぼちぼち綴っていきたいと思います。

突然の病院からの連絡

さて、先日、とても悲しい事がありました。父が亡くなりました。

父はここ数年、高齢者施設で生活していて、コロナ禍以降、大阪からは訪ねて行く事は出来なくなっていました。調子を崩して入院しても、直接会うことは禁じられ、予約制のZoom面会が唯一の面会の手段でした。

その病院から、昼過ぎに、「喀血したので、別の病院に搬送します。」と連絡があり、これはただ事ではないと、駆けつけることに。幸いにも搬送された病院は、父が何度も手術を受けた病院で、いつもの主治医の先生が受け入れてくれたのでした。

まさかの胸部大動脈瘤破裂

私は夕方到着し、主治医からは、胸部大動脈瘤破裂で、かなり厳しいと言われました。ただ、周りの肺などがクッションのような役割をしてくれて、その時は奇跡的に出血が止まっていました。

父はこの20年間程、心臓、腹部などの血管にトラブルがあり、ステント塞栓術や、開胸手術など、トラブルが見つかる度に勇敢に手術を受けていました。1年5カ月程前に、新たな腹部大動脈瘤が見つかった時に、腎臓の血管に近いので、場合によってはその血流を塞いでしまうかもしれないと言われました。その場合は腎臓が機能しなくなるので、人工透析になると。私達家族はかなり悩みましたが、動脈瘤を放置する方が危険と判断してステント手術を決意したのでした。

その手術は、残念ながら、腎臓への血流を閉ざす結果となり、翌日から父の人工透析が始まりました。父はがっかりしていて、「透析になってしまった。ショックやね。聞いてはいたけど。これで、寿命が4、5年は伸びるか。」と言っていました。辛かったです。

それからの透析は順調だったと思います。しかし、ある日突然、高熱が出て、その原因がシャント感染によるものだと判明しました。父の血管は細くて、自分の血管がシャントに使えないので、人工血管でシャントをつくっていたのですが、何らかの原因でそれが感染したようです。感染した人工血管を取り除き、様子を見ていましたが、そこから膿がでていて、さらに感染部分が広がっていたことがわかり、またその部分を取り除きました。

この頃から父は歩けなくなり、Zoomの面会でも寝ていることが多くなっていました。シャント感染は恐ろしいものです。なかなか、抗生剤が効かず、体内の異物と言われる、胸部大動脈のステントまでも感染してし、仮性動脈瘤となったのです。つまり、ステントの一部が破れ、大動脈に穴があいて出血していたのです。

通い慣れた父の病院からの眺め~遠くに海が見える

これまで、病気が見つかる度に、前向きに治療してきた父。こちらの主治医の先生がこれまでずっと診てきてくれました。その先生に、「今回はお父さんの体力がないので、これ以上の手術は無理で、かなり厳しい状態です。」と、言われました。

先生からは父の状態を、「苦しいのか、目を開けてくれない。」と聞いていましたが、私たちが部屋に入ると、父は目を開けてくれました。目が潤んで、確かに苦しそうですが、意識ははっきりとあり、私達の話している方向に目を向けて、きちんと聞いてくれていました。このことは、本当に嬉しかったです。

毎日の面会

病院での面会はコロナ禍で基本的に禁止ですが、今回はICUで1日2回、15分の家族のみの面会が許可されました。毎日、朝から晩まで家族控室に待機し、こちらの希望する時間に書類に記入し、検温、手洗い、消毒をして入室しました。父はかなり厳しい状態だったので、この許可が下りたのだと思います。

搬送日を入れて、4日間、毎日面会をしましたが、幸いなことに、私達が行くと、父は目を開けてくれました。意識がはっきりとありました。私達、(母、妹、私)はベッドの右から、左から、頭側から、父に話しかけました。妹は子ども達からのビデオメッセージを再生、愛らしい子ども達の姿と声が届けられました。

私も家族の写真や、毎朝撮影した父の知っている場所の写真を、説明しながら見せました。父は目を大きく開いて見てくれました。

叔母の家の前のおしろいばな~叔母の家に泊まって病院に通った

父はしゃべりませんでしたが、私たちの言動をしっかり受け止めてくれていました。胸の中は、おそらく出血で厳しい状態だったと思いますが、父の意識がはっきりとしていたのは幸いでした。

妹が、「写真撮ってもいいかな?」とつぶやきました。実は私も同じことを考えていたのです。ダメ元で、看護師さんに聞いてみました。答えは、「患者さんのみは駄目だけど、ご家族で、という事なら大丈夫。」という事で、シャッターまで押してくれて、印刷すると枕元に飾ってくださいました。父はしんどそうだけど、しっかりとカメラに目を向けてくれ、その父を囲むような形の写真となりました。

この事は今になっても、とても嬉しい出来事で、ベストショットとなりました。何年も家族で写真が撮影出来てなかったことは勿論、コロナ禍でやっと久しぶりに全員で会えたのでした。今思えば、父が会わせてくれたので、と思います。

努力家の父は最後まで生き抜きました

父は、搬送された日を入れて、4日間、見た目にはそんなに変わることなく頑張りました。3日目には新たな喀血が片手程あったそうで、身体の状態が恐ろしく悪いことに違いないのですが、面会に行くと、目を開けて私達の話を聞いてくれました。

父は、前向きで、努力家で、老人ホームのケアマネから、「車椅子の生活が続いているときも、介助を柔らかく断り、自分で車椅子を動かして筋肉を少しでも保つように頑張っていました。」と、聞きました。そして、この場に及んでも、ベッドの上で脚や腕を動かしていました。体がかゆかったのかもしれませんが、父が「動かせるよ。」とアピールしていたのだと、私は思いました。

このベッドの上でも、痰の吸引を何度も繰り返すと呼吸が苦しくなるので、出来るだけ自力で出そうとしている、ということを看護師さんから聞きました。健康な人には痰を出すのは何ともない動作ですが、この時の父には一大事で、うなるような声を出しながら、力いっぱい頑張っていました。こちらも思わず力が入ってしまいました。

父には、「お父さんは、いつもいつも努力する頑張り屋さん。本当に誇りに思うよ。」と声を掛けました。認知症の母は、父が治ると信じているので、いわゆる感謝の気持ちとか、贈る言葉の類を口には出せない状況の中、精いっぱいの表現でした。

そして、搬送日を入れて4日目の夕方、呼吸の回数が少しづつ少なくなり、父は力尽きて亡くなりました。

しかし、未だに私は本当に泣けてません

父が亡くなって1カ月経ちました。葬儀が終わり、大阪に帰ってきても、当初は、朝目覚めた時に、自分がどこにいるのかわからない日が1週間ほど続きました。身体の疲れもなかなか取れませんでした。体重も2キロ以上減っていました。

しかし、今はほぼ平常に戻り、仕事も普通に行っています。ただ、腑に落ちないのは、父が病院で亡くなった時はあれだけ泣いたのに、葬儀でも、その後も全く泣けていないのです。

最愛の父が亡くなって、とても悲しいのに、泣けない自分。祖父母が亡くなった時は、もっと自然に泣きじゃくりました。

心あたりはいくつかあります。それは次回に綴っていきたいと思います。

感想などございましたら、どうぞ。

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