父の胸部大動脈瘤破裂、4日間の経緯と家族の思い~その2
父の大事にしていた庭のもみじ、葬儀の受付に写真などと共に飾りました

こんにちは。つむぎの庭の糸野つむぎです。

父が亡くなって1カ月が経ちました。先日は、「まだ本当の意味で泣けていない」ということを最後に記しました。この理由について考えてみたいと思います。

父の亡くなった経緯について、まだご覧になられていない方は、ぜひご一読いただければと思います。

考えられる泣けない理由

最愛の父が亡くなり、ベッドのそばで号泣しましたが、それ以降、葬儀でも、思い出しても涙が出ません。薄情なのか、とも思い悩んでいます。

理由を考えるといくつか思い当たります。

  1. 葬儀のことや手続きで忙しすぎ、今後の悩みも多い
  2. 結婚して実家を離れてから何十年も経っている
  3. 父の亡くなるまで納得のいく時間が過ごせた

こんなところでしょうか。

1. 葬儀のことや手続きで忙しすぎ、今後の悩みも多い

母が喪主でしたが、高齢のため、妹と私が動いて葬儀を行いました。知らなかったこと、初めてのことも多く、物忘れのひどくなった母を挟みながら、行ったり戻ったりで時間がないのになかなか進みませんでした。しかも、私も妹も実家を出ていて、一緒に居られる時間が限られる中、心労は大きいです。母が父の亡くなることを理解していなかったことが大きかったです。

実家の全てが、父が健在していた時のままです。具体的には述べませんが、片付けたり、手を入れる事が多そうです。しかし、母が賛成してくれるかどうか、そんな悩みもあります。

とにかく、気が張っていて、これからのことを考えると憂鬱です。

2. 結婚して実家を離れてから何十年も経っている

私が実家を出てから長くなりました。たまに帰省することもありましたが、父と暮らした年月は過去のものとなっています。幼い頃の思い出もたくさんあり、父が入院してお見舞いに行くたびにそんな話で盛り上がりました。一緒に暮らしていたら、父のいない寂しさに直面して泣いていたでしょうか?

3. 父の亡くなるまで納得のいく時間が過ごせた

このことが、泣けない理由で一番大きいかと感じています。1年5カ月ぶりに家族が揃いました。コロナ禍でお見舞いや面会に行けなかったのですが、状態が厳しいということで、ICUで1日2回、面会させていただきました。父は喀血して搬送されても意識があり、4日間も頑張って私たちに時間を作ってくれたのです。

私たちが病院で過ごした時間は長かったのですが、初日に主治医から、いざという時に延命治療を希望するかどうかを聞かれました。難題でしたが、今となっては真剣に考えることができて良かったと思います。

延命治療の是非についての決定

搬送当日に家族の意見はまとまらず

搬送されたその日に、主治医から説明があり、延命治療について家族の総意を求められました。厳しい状態だったので、その時がその日の夜にやってくるかもしれなかったのです。私は、祖母が亡くなった時に色々と考えてきたので、大まかな意見は持っていました。しかし、妹とは少し意見が違いましたし、母は病状の把握ができていなく、家族としての結論をまとめることはできませんでした。

主治医は、「ここで話しているだけでは決められないかもしれないので、まず、お父さんに会いますか?苦しいのか、目は開けてくれないのですが。」と。私たちは、搬送後、初めて父に会いました。父は、苦しそうでしたが、私たちが行くと、目を開けてくれたのでした。しゃべることはしないけれど、はっきりと意識があって、私達の話を聞き、姿を目で追っていました。

ICUから出て、家族3人別室で話を続けました。意識のある父に会った後で延命治療についてどうするかを話すのは辛いことでした。でも、今意識がある、明日も意識があるかもしれない、とも思いました。私達3人の話は、挿管して人工呼吸器につなぐかどうか、ということが焦点となりました。挿管するとしたら、再び喀血した時、呼吸状態が悪くなった時が考えられます。しかし、喀血してから挿管するのは難しく、器官を傷つける恐れがあります。それに、挿管する時はもう意識がない時か、苦しいので鎮静をかけて、意識をなくしてから行うそうです。

ここで、「意識のある」、「意識のない」に注目しました。挿管すると父の状態からして、恐らく意識が戻ることはなさそうです。比較的状態が良い場合は、意識が戻って、自分で呼吸できる場合には人工呼吸器を外せるらしいです。父が、人工呼吸器をつけることのメリットとしては、ほんの少しだけ時間を稼ぐことができる、ということです。挿管という、苦しい作業をして、人工呼吸器につながったものの、意識はもどらず、少しだけ生命維持の時間がもらえるのです。

父はこれまで積極的に治療や手術を受けて頑張ってきました。それは、治る可能性があったからです。私は、もう十分で、これ以上、痛みのある処置を父に施さないでほしいと思いました。幸いにも意識があるので、可能な限り父に面会して、その1分1秒を大切にしたいと思いました。

妹は、大筋で私に賛成でしたが、父を一人で逝かせたくないので、時間稼ぎができるのであれば、夜中駆けつけてでも間に合いたい、という考えでした。

母は、この夜は「一日でも長く生きていてほしい」、と言いました。

主治医には、この夜時点での家族の希望を伝えないといけませんでした。意見はまとまりませんでしたが、この日は多数決で、「心臓マッサージはしない、挿管はしてほしい」と伝えました。

この日は、一人だけ病院に残るように言われ、私が家族控室で過ごしました。一人は本当に心細かったです。みんなが揃っていない時に急変でもしたらどうしよう、と。しかし、幸い、この日は大丈夫でした。

家族の総意は翌日に

搬送の翌日、家族で話をするために別室を用意してくれました。前日にはとりあえずの多数決の希望を伝えたので、もう一度3人で話し合いました。その時に看護師さんが、「大変難しい問題だと思います。本人の立場だったら、という視点で考えられたらいいかもしれません。」とアドバイスを頂きました。

母が、やっと現状を理解してくれて、「意識がなくなるなら挿管はイヤ。助からないなら、痛いことをしないでほしい。」と。

妹は、「再度喀血しても呼吸悪化しても、挿管はしないが、できるだけの治療をしてほしい。見捨てないでほしい。」

私は、「どんな場合も挿管しない。痛みの伴わない治療のみする。」

結論が出ました。

3人の延命治療の結論と希望

「苦しい思いをさせてまで、お父さんに少しばかりの延命を求めたくないので、挿管と心臓マッサージはしない。しかし、痛みの伴わない治療はできるだけする。ただ、一人で逝かせたくないので、兆候があったら、間違っていてもいいので早めに連絡してほしい。」

やっと、きちんとした家族の総意となりました。

延命治療について、なんとか全員の意見が一致し、安堵しました。もし、誰かを無理やり説き伏せてしまうようであれば、どこかでしわ寄せができていたことと思います。

エンディングノートは役に立つのか?

10年以上前だったか、祖母が亡くなった後で、妹と、両親の最後はどうしてあげるのがいいのか、今からゆっくり考えてほしくて、エンディングノートを渡して、書き込んでもらおうとしました。定期的に更新してもらおうと考えていたのでした。しかし、母にものすごく怒られて諦めました。自分たちの死について考えたくなかったようです。

もし、定期的にエンディングノートを更新してもらっていたら、今回はすんなりいったのでしょうか?私達は書き込まれたことを素直に実行できていたでしょうか?

病状や、回復する見込みの有無にも左右されることだと思います。また、本人と家族の価値観の相違もあるかもしれません。普段からそういうことを話ができていたら、判断材料にはなったと思います。実家を離れて、たまにしか会わない親子だったので、そんな話もできなかったのです。これを反面教師に、これからは私の夫や子ども達に、折に触れてこういう話もしていこうと思います。その上でエンディングノートを書くのなら有効でしょう。

父との最後の4日間

何度も記載しましたが、父は最後まで意識を失わず、面会に行くと、苦しそうだけど目を開けて、私達の話を聞いてくれました。母は、父が危篤状態にあるということが最後までわかっていなくて、「お父さん、早く良くなって帰ろうね。二人で楽しく暮らそうね。」と、こればかり繰り返していました。励ましているようにも見えましたが、本当にそう思っていたようで、私達は、父への感謝の気持ちを口に出すことができませんでした。

ただ、意識のはっきりしている父が、自分の状況を理解しているかがわかりませんでした。これまでの父なら、自分がなぜここに運ばれて、身体に何が起こっているのか知りたいはずです。これまで、事ある毎に、治療に積極的に臨んできた父が、知って、納得したいはずです。医師がそれを父に説明してくれていないかも、と思い、私がかいつまんで説明しました。母には止められそうになりましたが、くじけず、病状を客観的に最後まで話しました。

また、癒しになればと、父が喜びそうなこともたくさん伝えました。父の知っている場所や、今の外の様子の写真を見せたり、それに関連した思い出話や、子ども達の様子を伝えました。コロナ禍の中、東京オリンピックが開幕すること、私が最近楽しんでいることも伝えました。写真や映像にはとても反応があり、じっと見てくれていました。実家から見える美しい山あいの風景は特に喜んでもらえたと思います。

実家からダムを臨む風景は緑多くのどか

病院の対応も素晴らしかったです。

「痛みを伴わない治療は積極的に」、という希望に沿ってくれました。私たちは素人なので、何ができるのかは知らなかったのですが、具体的には次のことをしてくださいました。

  • 透析は体の負担の少ない24時間透析に切り替え
  • 血圧が上がれば、上がりすぎない薬を投与
  • 血圧が下がれば、下がりすぎない薬を投与
  • 二度目の喀血の後貧血になり、輸血

また、看護の面でもきめ細やかな配慮をしてくださいました

  • 体温が下がれば、電気毛布で暖め
  • 管に触りそうなので手にミトンをはめたが、面会の時は外して手を握らせてくれる
  • 酸素マスクを管が痛くないように、ガーゼでくるんでいる
  • 状態が悪化する兆候があれば、早めに連絡をくれた

これだけ熱心に治療・看護をしていただき、私は本当にありがたいことだと感謝しています。

父は祝日の日に亡くなりましたが、その日は、病院は休診であるにもかかわらず、主治医の先生は朝から何度も様子を見に来てくれていたようでした。そして、亡くなって、母がなんとか気持ちを取り直すまで長い時間待ってくださっていました。病院を出たのは夜中近かったのですが、最後までお見送りしてくださいました。父が長い期間、大変お世話になった先生、病院で本当に良かったです。満86歳と4カ月でした。

父の死から1カ月

こんなに鮮明に記憶しているのに、もう1ヶ月が経ちました。実際のところ、最後の4日間は濃すぎて、忘れたくもありません。父の顔、苦しいながらも私達の方を見てくれている潤んだ目。涙を何度も拭いてあげていました。大切に育ててくれた父なのに、恩返し、親孝行ができていなくて、本当に残念です。

母の様に、自分の感情に正直に、狂ったように泣きたいのに泣けません。でも、母はそれが母らしいです。私は父との最後の4日間の深い記憶があります。亡くなったは残念ですが、胸部大動脈瘤が破裂しても、4日間父のそばにいられました。友引の関係で、葬儀の日程が遅くなり、自宅で父を囲んで三晩川の字で眠りました。父との時間でした。

今思うに、父は喀血して、苦しい状態にあるのに頑張ってくれて、私達にお別れの時間をくれたのだと思います。胸部大動脈瘤が破裂して、出血が一旦止まり、意識もぎりぎりまで失わないなんて、すごいことです。やっぱり父はかなりの頑張り屋さんで、一家の太い大黒柱でした。

父の大事にしていた庭のもみじです。葬儀の受付に写真などと共に飾りました。

私が、まだ泣けていないのは、多分、父との最後の4日間が納得のいく時間だったからだと思います。父、家族、病院に感謝です。

感想などございましたら、どうぞ。

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